退職後の独り言(20)

  「退職後の独り言、80年」

 昨日(12月8日、アメリカだと、12月7日)、日本軍によるホノルルへの真珠湾攻撃の日でした。
 佐伯湾は、地形がホノルル市と似ていると言う理由で、大入島の周辺が、攻撃機の予行練習に使われたとのことです。当然、終戦前は、佐伯市は、アメリカ軍による空爆で、大きな被害を被りました。
 そんな苦い間柄でしたが、佐伯市とホノルル市は、その後、「友情都市」の関係を結び、その調印式で、私は、「さくら」と「荒城の月」を、披露することが出来ました。
 連合艦隊司令長官の山本五十六氏は、戦争は、本音は、したくなかったとのことです。軍事力は、アメリカの方が上だと、彼は、客観的な目で、思っていましたが、軍人は、政治家が決めたことに従うしかないと思い、戦うからには、それなりに戦うしかないと思って、指揮を取ったとのことです。

 以下は、「飯田中佐の涙」と題しての「2006.09.29 06:32」に記した私の内容です。
 佐伯市とホノルル市が、友情都市の関係になり、その為に、フレンドシップシティ調印式が、平成15年12月8日に行われることになり、市長以下佐伯市民約40名が、その調印式の為に、参加した。
 この時、私は、5カ所で、演奏することが出来た。
・12月7日の午前中、「カネホヘ空軍基地」の飯田(いいだ)中佐の墓の前で。
・12月7日の午後、「パンチボウル(共同墓地で、普段は、車は、走行中に、止めることが出来ない程の神聖な場所)」の頂上で。
・12月7日の夜、松尾ハワイ親善大使の自宅で。
・12月8日の午前中、ホノルル市庁舎での「佐伯市・ホノルル市のフレンドシップ調印式」の時に。
・12月9日の夜、最後の集まりで。
 その中で、一番思いで深いものとなったのは、飯田房太中佐(山口県出身、享年25歳)の墓の前での演奏。
 飯田中佐は、自分の飛行機が既に母艦に戻ることが(自分の飛行機の燃料タンクの個所がアメリカ軍に攻撃された為に)不可能と判断すると、まず、部下に帰る方向を指示し、部下が戻って行くことを確認して、自分だけ方向転換して、「カネオヘ空軍基地」の弾薬庫に(相手の被害を大きくする為に)突っ込んで自爆したのである。そんな彼を、アメリカ軍側は、その場所に、墓を作って弔っていた。アメリカ軍の心温まる厚意に感謝すると共に、若くして部下を思い、国を思い、戦争の為に、尊い命を無くした、名も知れぬ一人の日本人の存在を知って、私は、(上手に吹こうとか、格好良く吹こうとか、そんなことは、全く頭にない状態で)その時の状況を察しながら、彼のことを真剣に考えて、(太鼓の黒い服に着替えて、靴も換えて)心を込めて演奏した。
 小雨の降る中、篠笛から「さくら」の曲が流れた。ある女性(60歳)は、言った「先生、涙が止まらなかった。」と。又、ある男性(57歳)は、言った「自然と涙が出て来た。」と。そして、ある年配の人(ウナバラカイの会員の人)は、「飯田中佐は、こんな所まで見知らぬ日本の人が来て、自分の為に演奏してくれたことに対して、凄く喜んでくれたと思いますよ」と。
 今まで、あちこちで演奏して来たが、この時ばかりは、今までと違った感じに思えた。
 その後、その時から、凄い大雨となった。1996年以来とのことで、高速道路の一部が通行止めとなり、子どもが4名流され(幸いに、助かったが)、今まで断水で苦しんできたホノルル市が、全く逆の状態となった。
 同行していた教育長は、私に言った。「先生、これは、彼の涙ですよ。嬉し涙ですよ。」と。
*赤松さんが、真珠湾で飛行機からアメリカの艦隊を攻撃した時、フィスケさんは、艦隊の上でトラッペットを吹いている最中だった。突然、海の中へ投げ出され、九死に一生を得ていた。赤松さんも、その後、何度か、戦争で海に投げ出され、多くの旧友が死んで行く中で、奇跡的に生き延びて来た。その二人が、ホノルルの自宅に行き、病床に就いているフィスケさんを赤松さんが見舞いに行き、涙ぐんで握手していた。
 
以下は、平成15年12月4日の西日本新聞に掲載された内容。
 真珠湾攻撃
 1941年12月8日(米現地時間7日)、空母を主力とした旧日本海軍の連合艦隊を飛び立った攻撃機が、米ハワイ・ホノルル市の米軍太平洋艦隊を攻撃。戦艦4隻を撃沈し、米兵約2300人が死亡。真珠湾攻撃を引き金に太平洋戦争に突入した。佐伯市史などによると、連合艦隊は11月上旬、佐伯湾を真珠湾に見立てた最後の訓練後、佐伯湾を出航。北海道・択捉島の単冠(ひとかっぷ)湾に集結し、真珠湾へ向かったとされる。
 「真珠湾」平和の砦に 出撃地・佐伯市 ホノルルと友情都市 9日締結 日米元軍人の交流が縁
 太平洋戦争の引き金となった真珠湾攻撃から六十二年。連合艦隊の主力部隊が出撃した大分県佐伯市と米ハワイ・ホノルル市が九日(米現地時間八日)に「フレンドシップ・シティー」(友情都市)の調印を行う。イラク情勢の泥沼化やテロの多発など国家、民族間の紛争が絶えない中、真珠湾攻撃の“怨讐(おんしゅう)”を超え、地方都市から平和の砦(とりで)を築いていく。
 両市を結んだのは、佐伯市在住の旧海軍パイロット、赤松勇二さん(83)。真珠湾攻撃で米戦艦に魚雷を投下した。
 戦後五十年の節目を迎えた一九九五年八月。ホノルル市であった日米合同慰霊祭に招かれた。真珠湾攻撃で九死に一生を得た元米兵リチャード・フィスケさん(81)と出会い交流が始まった。
 「二十一世紀にわだかまりをひきずってはいけない」。赤松さんは地元の子どもたちをハワイに連れていくなど草の根交流を続けた。二人の行動に行政も動かされた。佐伯市が友情都市締結を持ち掛ける親書をホノルル市に送り、「歓迎」の返事が今年六月に届いた。
 佐藤佑一・佐伯市長を団長とする訪問団は五日、ハワイへ出発。パールハーバー式典に出席した後、九日(現地時間八日)の調印式に臨む。

 両市で交わされる「平和友好交流協定書」は「真珠湾を共有する両市が英知を結集し、ミニサイズの交流推進に努め、世界に向けて平和友好交流の範を示す」とうたっている。佐藤市長は「不安定な国際情勢のなかで、世界中の人々に力強いメッセージを送りたい」と平和交流をアピールする。
 フィスケさんは九七年、佐伯市の平和祈念館にネムノキ四本を贈った。そのネムノキは今年五月、初めてピンクの花を咲かせた。
追加:残念なことに、赤松さんもフィスケさんも、今は、故人となられています。ご冥福をお祈り申し上げます。

 私は、帰る前の日の午前中、ホノルル市の大きな動物園に行った。そこで、象を2時間近くも観察していた。2頭の17歳と28歳の象がいた。丁寧に体を洗ってもらい、食事も与えてもらっていた。飼育の人は、真剣に象の気持ちになって接しているなあと思った。前足を上げる芸(両足を上げていた)もしていて、見ている人が拍手をしていた。象が歩く時、大きな音がしないのは、つま先で歩いていて、つま先の骨の下に、THICK ELASTIC PADSがある為とのこと。前足で草を集める動作、鼻で目をこすっている姿、笑った感じの目、象は、いろんな表情をする。象は、サバンナの中では、一番強い動物。あのライオンの群れも、象の群れには、かなわない。
 そんな象が一番恐れているもの、それは、・・・象自身である。それを、如実に確かめることが出来た。
 草を飼育係の人が与えると、象は、飛んで来るのだが、そこに、小さな鳥がいるので、急にスピ一ドを落としてしまう。それを私は何回も確認した。鳥を踏まない様にと、あの大きな巨体の象は、気を使っているのである。又、もう一頭の象が食べてる草を決して横取りして食べようとはしない。象は、とっても優しい動物で、争うことを嫌い、自分の強い力を恐れているのである。
 人間も、象から見習うべき所が多いと思う。上に立つ人間、力のある国、もっともっと、自分の持っている力の怖さを知って、思いやりの気持ちで、事を運んで行ってもらいたいと思います。
 
 (令和3年12月9日、記載)

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