退職後の雑感(25)

  「退職後の雑感、この世は夢」

 メッキは、その内に剥げますね。剥げた時の姿は、メッキの時とは、違いますね。全く別物って感じのこともありますね。
 今は、まだ、肩書きを重んじる時代でしょうか。一流大学を入ろうと、それなりの人が、まだ、競争しています。少子化で、浪人がいなければ、数の上では、皆、浪人しなくても入れる計算になるとのことですが・・・今だと、入るのに数が限られているので、どんなに頑張っても、周りがもっと頑張っていれば、入れないことになりますね。入る為に、小さい時から塾通いのケースも、しばしば目にします。ホントに、これで、いいのでしょうか・・・?!
 確かに、試験は、どんな時代になっても、無くならないでしょう。ある所では、順位が付く世界をどうしても、避けては、通れない場合もあるでしょう。しかし、それがずっと影響したり、それが目的になるとしたら、問題だと思います。

 一休禅師の逸話があります。
 ある時、金持ちが盛大に先祖の法要を営み、僧に供養しているのを見て、一休禅師は、その家の門に立って食を乞いました。しかし、家の者は、破れ衣の一休禅師を乞食坊主と見て、追い返してしまいました。
 その後、例の金持ちが再び法要を営んだ時、一休禅師は、今度は、金襴の衣を着けて家に入ると、上の座に迎えてご馳走を運んで来ました。一休禅師は、やおら衣を脱ぎ、膳禅をその上に供えました。
 家人が訳を聞くと、「ご馳走は、私にではなく、この衣に供えられたものですね!」と言われました。
 衣の豪華さ、色で、僧の偉さや位が付けられていた時代でした。その無意味さを一休禅師は、教えたのでした。
 チベットに行った人から、間接的に、ダライラマの話を聞いたことがありました。ダライラマが乗っていたジープを見て、余りにもポンコツ車だったので、びっくりしたとのこと。ダライラマが住んでいる所に行って、もっとびっくしりしたとのこと。実に質素な家に住んでいて、実に質素な生活をしていたのです。どこかの国では、僧侶の中には、立派な車に乗り、きらびやかな服を身に付け、それなりのお金を要求し、夜は、飲み歩く人もいるとか・・・?!
 肩書きが付くと、「自分は偉いのだ」と思い上がる人がいます。一流大学出、イコール一流人間だと思い込んでしまって、他人を見下すケースも、時にある様ですが・・・。
 これらは、自分を飾る「飾り物」を見せびらかし、威張っている人に他なりません。やがて、その人の本当の真価が中身で問われた時、メッキが剥げて、誰からも相手にされない、寂しい晩年を送ることになるのでは・・・?!
 昔の将軍には、偉いお坊さんが傍に付いていて、精神的な指導をしていたと思われます。(←今の政治家には、お金の亡者がとり巻いている?!)
 徳川家3代目の将軍家光は、晩年、沢庵和尚を紹介されています。将軍である家光を何ら区別せずに、財産も寺さえもいらない彼に、家光は惹かれ、安らぎを彼に求めていました。
 「一体自分は、何に飢えているのか?何が自分を苦しめているのか?」との家光の質問に、
 「何事にもとらわれてはいけない。この世は、夢。人間の本質は無にあるのです。」と、沢庵和尚は応えています。
 沢庵は、贈り名も位牌さえも拒絶して、弟子の一人も残さずに、この世を去って行きました。彼が家光に残したものは、○に点だけの沢庵の自画像(円相)と、「夢」と書いただけの書でした。

 (令和4年1月13日、少し修正して、再掲)

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